飯舘村にペイネ&ミッシェル・アンリ美術館
更新日:2020年11月27日

飯館村にペイネとミッシェル・アンリの美術館をオープンしよう
2003年頃、飯舘村の菅野村長が軽井沢プリンスホテルでの研修会に参加した時、ギャラリー・ヴァン・ド・フランスでペイネの版画を買った。その後、私に電話があり、飯館村の逢の澤にペイネ美術館を作りたいので、沢山作品が欲しいとの事だった。2年間程の間に50点程買ってくれた。菅野村長は個人で買って、美術館が出来たら村に寄付する予定にしていた。数年後、仙台三越でのミッシェル・アンリ来日展に奥さんと一緒に来てくれた。ミッシェル・アンリの絵画を見て、同時に画家に会って感激し、予定の美術館は「ミッシェル・アンリ&ペイネ 愛と花の美術館」にする事になった。2006年に町議会で否決されましたが、菅野村長は諦めていませんでした。菅野村長は自分が書いた本や、ブランドの飯館牛の肉の大きな塊を送ってくれたり、東京に来たときは一緒に食事をしたりして、私達はすっかり友達になった。2009年と2010年夏休みに飯舘村の美術館予定地の逢の澤のコテージに女房や子供連れで泊まりに行き家族ぐるみの付き合いになった。はやま湖で菅野村長の奥さんが茹でてもってきてくれたトウモロコシを女房や子供と一緒に頬張りながら、花火を見た。飯館村の逢いの澤に行くと、俳句を刻んだ小さな石碑が数メートル置きに有り、湖をぐるりと取り囲んでいる。村民が作った俳句だ。いくつか紹介しよう。「ひと声に牛の寄りくる秋の暮」「下校の子稲刈る父を見て帰る」「トラクターに新妻乗せて花野ゆく」など牧歌的な句が並んでいる。俳人の黛まどかさんが審査員となって入選した作品を石に刻んだそうだ。私も一句作って、俳句で生活している友人に見せたら、ストレートすぎて俳句になっていないそうだ。私のストレートな句は「夏の夜天まで響け祭り太鼓」花火の上がる前に、かがり火に照らされた祭り太鼓の演奏があり、太鼓の音が真っ暗な夜空に上って行った。
2011年3月11日東日本大震災が発生した。数週間すると飯館村が放射能で大変な被害に会っている事が解った。菅野村長に何かできる事が有るか聞きましたら、子供達が一番
可愛そうなので、なにかプレゼントして欲しいと言われ、寄付を集め読売ジャイアンツと楽天のグッズ400個を幼稚園児と小学生に届けた。まだ、飯舘村全村避難の命令がでる前だったが、3校ある小学校の子供達は、隣町の小学校の校舎を借りて勉強していた。中には1時間以上掛けて通っている子供もいた。子供達は以外に明るく遊んでいた。私は彼らに「今大変な時だけど、この状況を乗り越えた向こうには、素晴らしい未来が待っているから、大変だけど一緒に乗り越えて行こう。」と言いつつ、この子供達が将来で苦しむ事が無いようにと祈るような気持ちだった。今でも、時々、あの時会った子供達の事が心に浮かぶ。元気で育って欲しいと念じる。きっと大丈夫だ、元気に育つ。(株)ワニプラスの佐藤寿彦社長から、菅野村長の手記を出版してくれるとの親切な申し出があり8月に「美しい村に放射能が降った」を出版してくれた。その後、菅野村長から子供達に、東京で野球を見せてあげたいとの、希望があった。<東京ドームに子供達を招待して、保護司も一緒に野球の試合を見て、1泊するツアーは>はまさに、もんもんとした状況の子供達を元気づける企画だと思った。また、沢山の人が彼らを応援している事を感じてもらい<絆>を作る事だと思った。飯館村は、小石川ロタリークラブ、読売ジャイアンツ、東京ドーム 藤田観光に協力して頂き、村主催で2012年4月と8月に3回に分けて180人の子供達に、読売ジャイアンツ観戦1泊ツアーを開催した。私も東京ドームでバスから降りる子供達や保護者の方々を出迎えた。彼らの晴れ晴れとした顔を見たとき、本当にうれしかった。協力してくれた方々も一緒に出迎えた。皆さん感激していた。
飯舘村の人たちはいつの日か村に戻れるのだろうか、それとも、このまま避難した場所で新しい別の人生を歩むのだろうか。私は、いつの日か、飯舘村の<ペイネとミッシェル・アンリ 花と愛の>美術館を訪れたい。あの小学生達が全員、飯舘村の大人になって、自分達の子供達を連れて、逢いの澤を散歩して俳句を楽しみ、村の小さな美術館で憩う日が来て欲しい。
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