ミッシェル・アンリ物語

最終更新: 4月19日


ミッシェル・アンリは1928年フランスの北西ブルゴーニュ地方のラングルに生まれた。お父さんは学校の先生でふつうの家庭だった。幼少より描く事に興味があり、才能を発揮していたらしい。クリスマスのプレゼントは絵の具を買ってもらったとミッシェル・アンリから聞いている。4歳で描いた絵画は既に、今の構図で描いたと聞いている。窓辺にブーケを描き、窓の向こうに風景が描かれていたそそうだ。






ミッシェル・アンリが生まれたLangres (ラングル)はローマ時代に築かれた城塞都市

ラングルについてはミッシェル・アンリの美術館のブログで詳しく説明しよう。




<ブルゴーニュの秋>ミッシェル・アンリ作 シルクスクりーン

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高校卒業後はパリのボザール(国立高等美術学校)とパリ大学に同時に入学した。画家になるのを反対していた両親の為、パリ大学の法学部にも席を置いた。けれども、早い内から才能が高く評価されて、ボザール在学中から様々の賞を取ったり、その賞の奨学金でマドリッド、アムステルダムに長期留学したり、クラスの代表としてベルリンに派遣されたりしたので、両親も安心したのだろう。パリ大学の法学部は中退している。ミッシェル・アンリがボーザールの1年生の時に、クラスベルナール・ビュッフェたいた。指導教授はナルボンヌで、デッサンを重視する教授だった。ミッシェル・アンリもビュッフェもこのクラスでデッサン力を身につけた。ビュッフェはマチニョンの画商のモーリス・ガルニエと出会い。ボザールを中退してプロの画家としてデビューして人気作家となっていった。ミッシェル・アンリは色彩力で定評のあった、シャプラン・ミディのクラスに進学してクラスの代表となり確かの色彩力を身につけた。ビュッフェの絵画はデッサンに偏り、漫画チックなのに対して、ミッシェル・アンリはデッサン力、色彩、ビュッフェの絵画はデッサンに偏り、漫画チックなのに対して、ミッシェル・アンリはデッサン力、色彩、構図と卓越した力量を身に着けた。


<ブルガンディーのピクニック> ミッシェル・アンリ作 オリジナルシルクスクリーン 

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 余談だが、セルジュ・ゲンスブールというフランスの有名な音楽家をご存じだろうか。パンクのような雰囲気の音楽を作り、自分で歌う。彼は1928年生れで、やはりボザールに入学して画家を目指したが、目が出ず音楽に転向した。彼のお父さんは、バーやクラブのピアノ弾きだった。セルジュ・ゲンスブールは、現在では余ほどのフランス好きでないと知らない人が多いが、イギリスのトップ女優ジェーン・バーキンと結婚して、その娘が音楽家で女優のシャーロット・ゲンスブールだ。シャーロット・ゲンスブールは今の若い人達も知っている人が多いと思う。父親と同じく、メリディーラインより単調な音の組み合わせの軽いロック調の曲が多い。映画でも個性的な役が多く、カンヌ国際映画祭で主演女優賞に輝いた事もある。しかし、ミッシェル・アンリからセルジュ・ゲンスブールの事は聞いた事がない。ミッシェル・アンリは学生時代からきちんとした服装と礼儀正しい態度言葉使いで学生代表で外国に派遣された優等生だし、ゲンスブールはデカダンでよれよろのジーンズで絶えず巻きたばこをすかす不良だから、二人にあまり接点はなかったであろう。



セルジュ・ゲンスブールと妻のジェーン・バーキン        セルジュ・ゲンスブールと娘のシャー

                                      ロット・ゲンスブール


 話を絵画に戻そう。ミッシェル・アンリもビュッフェも1928年生れで、第2次世界大戦の終戦直後にボザールに入学した。当時は、映画などもイタリアンレアリスムの、貧しい人達の打ちひしがれた姿が描かれ、戦後の貧しく苦しい時代を生きる人達の共感を呼んでいた。文学の世界でも、サルトルやカミュなどフランスの実存主義文学が世界的な潮流となっていた。実存主義は、理想や規則よりありの儘の人間を肯定する傾向があり、戦後の底辺の人達の姿を肯定的にとらえた。悲しみはの中に入る人は、明るく楽しい雰囲気によってより、自分の心より更に暗い音楽、美術、文学などに心癒される傾向がある。心がマイナーな時はマイナーな音楽を好むと言い換える事ができるかもしれない。そういった時代に合って、ベルナール・ビュッフェの太く黒い線で描かれた薄暗い風景画やピエロ、サーカスの芸人などの物悲しげな絵画は人々の共感を誘った。また、アルマニア移民でモンパルナスの夜学で絵画を学んだ、ジャン・ジャンセンも震えるような、繊細な線を多用して、物悲しい風景や、貧しい人達の姿を描いて、時代の画家となった。ビュッフェはデッサンのみ学んで、ボザールを中退したと書いたが、確かにビュッフェの絵画には色彩が欠落しているが、そのモノトーンな貧しい色彩が時代の雰囲気には合っていた。


ベルナール・ビュッフェの版画


ビュッフェがボザールを去った後、ミッシェル・アンリはナルボンヌ教授のクラスを終え、優れた色彩画家でもあったシャプラン・ミディのクラスで色彩を学んだ。ミッシェル・アンリはシャプラン・ミディから色彩理論も叩きこまれたが、その理論通には描かなかった。通常の絵画理論では、赤い色彩は暗い色価とさている。しかし、ミッシェル・アンリは赤い色彩に光を与え、赤い色彩を明るい色価として使用して成功した。その様なミッシェル・アンリの色使いを見た、指導教授のシャプラン・ミディは<ミッシェル・アンリは私を越えた>と言った。


<赤いインスピレーション> ミッシェル・アンリ作 シルクスクリーン

ビュッフェ以外にもミッシェル・アンリと同時期のボザールの有名画家がいる。ミッシェル・アンリは強い色彩のシャプラン・ミディのクラスにいたが、隣のクラスの指導教授はモーリス・ブリアンションは柔らかい色彩を特徴としていて、彼のクラスで学んだのがベルナール・カトランとアンドレ・ブラジリエだ。二人とも柔らかいぼんやりした色彩で描く。ブラジリエはミッシェル・アンリ、ビュッフェと同世代で1929年生れだ。それより少し遅れて、ジャン・ピエール・カシニョールが入学してくる。カシニョールもシャプラン・ミディのクラスに入学を希望していて、その時の試験官がミッシェル・アンリだった。つまり、カシニョールはミッシェル・アンリ許可を得て入学してきたミッシェル・アンリの後輩だ。カシニョールは1980年代までは、ブラジリエなどと同じようなぼんやりした色彩で描いていたが、1990年代には先輩ミッシェル・アンリの強烈な色彩に近づいた。


<黄金色のベニス>ミッシェル・アンリ作 シルクスクリーン

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皆さん!マチエール(質感)といく絵画用語をご存じだろうか。デッサン、色彩、構図、タッチと共に大事な絵画的要素だ。マチエールは絵の具が与える印象の事だ。ミッシェル・アンリと同世代の画家、ビュッフェには色彩が貧しいと書いたが、ミュッフェ、ブラジリエ、カシニョール共にマチエールが欠落していると私は思う。または、平面的なマチエールでマチエールとしての魅力に乏しいと言ってもよい。油絵具は、水彩、パステルと違って、立体感を持たせる事ができる。つまり、水彩、パステルは、平面芸術であるのに対して、油彩画は3次元で表現する事ができる。この同世代の画家の中で唯一ミッシェル・アンリがマチエールを意識して完成度の高い絵画を描いている。下の<透明な赤>はミッシェル・アンリの油彩画のマチエールの魅力を感じて頂ける作品だ。不規則な絵の具の盛り上りが色彩と調和して実に美しい。



左からブラジリエ、カシニョール、カトランのリトグラフ


<透明な赤> ミッシェル・アンリ作 油彩


その後、ベルリンにはクラス代表として外務省から派遣された。その後、メゾン・ド・デカルト賞を受賞して、アムステルダムにあるフランス政府が経営するMaison de Decarte (デカルトの家)奨学金で留学した。Maison de Decarte (デカルトの家)は高度な研究者とクリエーター育成の為のフランスの教育機関た。私が、モンペリエ大学で社会学科の学生だった頃、リュシアン・ゴルドマンという戦後のフランスの人文科学会を牽引したルーマニアからの移民の哲学者を研究課題に選んでだ事があるが、彼も若い頃Maison de Decarte(デカルトの家)に留学している。つまり、ミッシェル・アンリが画家としてのエリートコースを歩んでいた事が解るだろう。その後、カザ・ベラスケス賞を受賞して奨学金で2年程マドリッドのCasa de Verazquez(ベラスケスの家)に留学した。このCasa de razquez (ベラスケスの家)もやはり、1916年からフランス政府が運営しているフランス国外のフランスの高等教育の学校で科学、人文科学、音楽、アートの高度な研究者やクリエーターを養成する事を目的として設置され、現在も運営が続けられている。ここでミッシェル・アンリはかなり楽しい青春の日々を過ごしたらしい。



カザ・ド・ベラスケスの外観と内部写真


楽しいマドリッドの留学からパリに戻ってきたら、友人達は卒業していて、ボザールで寂し思いをしつつ、パリの高級画廊街のロマネ画廊と契約してプロの画家としてデビューした。エリゼ宮殿(大統領官邸)に隣接するマチニョン街は高級画廊街だ。このマチニョン街と垂直に交わるエリゼ宮に隣接する通りがブランドのブティックが集まっている有名なフォブールサントノレだ。外国の大統領は首相など要人などもこのこの辺りのホテルに泊まるので高級品売れる。エリゼ宮の真ん前にあるホテルブリストルは有名だ。ミッシェル・アンリは生涯60年に渡ってこのマチニョン街の画廊の画家だった。

ロマネ画廊が閉店後は、ウオーレー・フィンドレー画廊(アメリカの画廊でニューヨークの本店は今も営業している。)、ウオーレイ・フィンドレーがパリ店舗を閉めてからは、フィンドレーのマネージャーだった、エチエンヌ・サシーの画家となり、サシーがニューヨークに移ってからは。カンヌに本店のあるアレクサンドール・レオドゥール画廊の画家となった。アレクサンドール・レオドゥール画廊は現在もマチニョン街の同じ場所で営業している。そのマチニョン街から程近いセーヌ川添いにパリの名所として名高い、絵画展示の為に作られグランパレがある。グランパレを描いた作品を紹介しよう。


<グランパレ> ミッシェル・アンリ作 オリジナルシルクスクリーン

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グランパレを出て右に行くと直ぐセーヌ川だ。パリの橋で最も、華麗と言われる金色の彫刻が施されたアレクサンダーⅢ世橋は渡るとエッフェル塔に行き当たる。


<エッフェル塔とアイリス>ミッシェル・アンリ作 オリジナルシルクスクリーン

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ロマネ画廊が早速ミッシェル・アンリの展示会を開催した。ある日の午後ミッシェル・アンリは自分の展示会開催中のロマネ画廊に行く為マチニョン街を歩いていたら、随分綺麗な人をすれ違った。確か見た事のある女性だと思いながら、ロマネ画廊に付くと、ロマネ氏が<たった今グレダ・ガルボが君の絵画を買った帰ったよ。>と言った。ミッシェル・アンリはさっきすれ違った美しい女性が絵画らしい物を抱えたいたのを思い出した。彼は、すぐ表に飛び出したが、グレダ・ガルボを見つけだす事は出来なかった。そういえば、グレダ・ガルボは絵画の収集家として有名だ。


ポン・ヌッフとノードルダム





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